K氏とI氏の物語
兵庫県小野市葉多町の南側にはI姓の方が現在でも多くお住まいです。そんなI姓の方から郷土史的にとても興味深いお話を聞かせていただきましたので、記録にとどめて置きたいと思います。
安土桃山時代のことです。織田信長麾下の羽柴秀吉による播磨攻略戦の中、現在の加古川市志方の志方城(現:観音寺)が落城。城主の櫛橋政伊は降伏。妹婿に当たる黒田孝高(官兵衛)の助言もあり、後に櫛橋一族の多くは黒田家臣となったとのことです(参考:Wikipedia 志方城)。落城の際、おそらく城主のご一門のどなたかでしょうが、現在の平荘湖辺りを本拠としていたK氏の一族が、現在の小野市葉多町に落ちのびてきたそうです。
そのときにI氏もK氏に付き従い土着したとのことです。現在でも平荘湖周辺はI姓の方が多くお住まいのようです。K氏のお殿様は、後に槍を担いで郎党を引き連れ、別所長治公と共に三木城に籠もったとのこと。後の天下人と戦ったとはすごいですね。壮絶な籠城戦の末、三木城は降伏。別所長治公の命と引き換えに城内の将兵は救われました。そして現在に至るまでK氏の末裔は小野市にお住まいです。
I氏一族が住んでいたのがムラの南側、K氏のお城があったのがムラの北側。そこでI氏の方々がお城に行くための道があったそうです。その道の途中であったろう場所に、古い石碑のようなものが現在でも残されています。雌雄(陰陽?)一対であることから道祖神だと思われます。ちなみにこの場所は字(あざ)荒神元といいます。現在は葉多町と王子町の境あたりにある荒神社は、元々はここあったそうです。平安時代(貞観年間)におきた山崎断層が震源とみられる播磨国地震で崩壊した後、現在の場所に移設されたのでしょう。同じく小野市の史跡である広渡町の広渡廃寺はこの地震で崩壊したと考えられています。

現在の城跡の様子
城跡は現在では芝生のグラウンドになっています。加古川東岸を見渡せる河岸段丘の端に位置しています。当記事のアイキャッチ画像は城跡から加古川方向へ向けて撮影した画像です。郷土史研究とかおもしろそうですね。やってみたいですね。


この小高い丘の上にお稲荷様が祭られています。初午の餅まきの際はここからお餅をまきます。








