新憲法草案
令和7年5月、参政党より新憲法草案が発表されました。かねてより参政党は創憲を掲げており、内容はともかくこの度草案の発表に至ったことは、憲法について日本国民が改めて考えを深めるよいきっかけでもあり、もしかしたら、歴史の大きなターニングポイントとなるかもしれません。
→ 参政党が創る新日本憲法(構想案)※当記事アイキャッチ画像はこちらのWebページの引用です。
そもそも憲法とは
現行のあらゆる憲法の源流は、1215年にイギリスで制定されたマグナ・カルタ(The Magna Carta:大憲章)といわれています。王権を法的に拘束することを明文化したもので、現在にまで至る憲法、立憲主義の源流とされています。絶対王政が極まった結果、民衆による革命で王家が滅びたフランスとは違った道(立憲君主制)をたどったイギリス。そのイギリスで世界初の憲法が生まれたのは日本国にとってもある意味、象徴的な出来事であったように思います。
憲法論議のずれとその本質
では日本国において特に戦後、愚かしい憲法論議が繰り返され、議論も活発化しないまま現在に至るのはなぜでしょうか?私は、明治期の大日本帝国憲法制定時に端を発すると考えます。問題点は、
① 西洋的憲法(Constitution)の訳に、日本語の「憲法」をあててしまったこと
② 「天皇」をエンペラー(emperor)と英訳してしまったこと
この2点であると考えます。
日本人にとっての憲法
① については、そもそも、西洋的憲法(Constitution)は法大典や大法典などと、訳されるべきものではないでしょうか?一方、日本語における「憲法」とは長い歴史の中で日本人が紡ぎ続けてきた、人としてのあり方、社会のあり方、そして国家のあり方ではないでしょうか?それは未だはっきりと明文化されておらず、私たち日本人の魂に刻まれたもの、強いて言うならば惟神の道(かんながらのみち)であると考えます。それを改訂することは日本人にとってはアイデンティティの喪失であり、大きな抵抗を生むのは必然なのです。
それを、西洋的憲法(Constitution)を「憲法」と訳してしまったため、日本人の価値観のすり替えが発生してしまいました。日本国憲法は施行から80年以上たっても今だに一度も改訂されない世界的に見ても類をみない超硬性憲法になってしまい、ただの「大法典」に過ぎない日本国憲法を、しかも占領下で草案を押しつけられ制定させられたもの(明らかに「ハーグ陸戦条約第四三条」※1 違反)を後生大事にしているのも、この日本人の価値観のすり替えが原因のひとつではないかと考えます。
参考(https://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v6/topinterview/01h.htmlより引用):
※1「ハーグ陸戦法規」
「陸戦ノ規則慣例ニ関する条約」(1907年)第四三条 「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限り、占領地ノ現行法ヲ尊重シテ、ナルベク公共ノ秩序及ビ生活ヲ回復確保スルタメ施シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」
日本人にとっての天皇
② について。「天皇」は戦前も戦後も日本国の象徴です。歴史を紐解けば武家政権が台頭してからずっとそうだったかもしれません。「象徴」と言うとふんわりとした表現ですが、日本国において「天皇」とは「最高権威者」、時の施政者が「最高権力者」です。このように日本国は世界的にも類を見ない「権威」と「権力」が分離した政体であり、それこそ長い歴史の中で数々の国難を乗り越えながら、国家を永らえてきたひとつの要因ではないでしょうか?
「天皇」がエンペラー(emperor)なら、当初GHQが先の大戦の戦争責任を昭和天皇に負わせようとしたのは当然です。しかしそうはならなかったのは「天皇」はエンペラー(emperor)ではないことをGHQに理解させた人がいたからです。
この度の参政党新憲法草案、「第一章 天皇」において、「天皇」を国家元首などという西洋的な立場とせず、象徴などと言うふんわりした表現もせず、「最高権威者」、「祭祀執行者」として、そしてそれが故の神聖性を明記しているところを、私は大いに評価します。
大日本帝国憲法の功罪
以上、明治期の大日本帝国憲法制定時に端を発する問題点2つについて記載しましたが、しかしながら大日本帝国憲法は、弱肉強食の帝国主義が大手を振ってまかり通る時代の中で、非西洋国であり、近代国家として歩み出し始めたばかりの当時の日本国においては、もっとも正解に近いものであったとも思います。現代のものさしで歴史を計っては、物事の本質を見失ってしまうのです。
みんなで創ろう
皆さんは明治期、大日本帝国憲法制定に先立ち、自由民権運動の流れの中で民間で多くの憲法草案がつくられたことはご存じでしょうか?代表的なものは五日市憲法でしょうか?このように憲法論議はもっと自由で、もっと多くの人のもとで、行なわれるべきものなのです。
上記も私の私的な意見に過ぎませんし、参政党新憲法草案にしてもただの草案です。今こそ、今を生きる私たちが八百万の神々の一柱となり、未来の子どもたちのために新しい国の形を考え作り出す時ではないでしょうか。それこそが、この度の参政党新憲法草案の意義だと私は思います。