祖父の従軍記録
子どものときに私が祖母から聞いた、祖父、大崎善治郎の従軍のお話しです。祖父は大正生まれ。大工だったため、第二次世界大戦では工兵(橋や道路など工作物を建設する兵科)として満州(現在の中華人民共和国東北部)へ派兵されました。祖父は当時としては長身・筋肉質の体型で、30kgの米袋を二つ担いで悠々と歩いていたそうです。ですから堂々の甲種合格だったのでしょう。
鉄道で広島県の呉まで移動。そこから船で大連へ。前述の通り工兵として従軍しているため、実際に銃や砲を扱っていたわけではなさそうですが砲弾は結構飛んできていたそうです。祖母には「弾は結構飛んでくるけど、意外と当たらないもんやなあ。」といったのんびりした手紙をよこしてきたそうです。当たらなければどうということはないということですね。ウクライナ戦争を見るに現在でも榴弾砲は陸軍の主力兵装ですが、当時の精度たるや現在と比べるべくもなかったのでしょう。
帰還そして終戦
で、前項は本項のフリなのですが、その後祖父は被弾しました。砲弾の欠片がくるぶしに当たり、歩けなくなり兵隊としては使い物になりませんから、内地へ帰還することになりました。そして大阪の陸軍病院に入院中にそのまま終戦を迎えます。
終戦後の満州がどういう状況であったか、ご存じの方も多いと思います。私の知り合いにも命からがら満州から逃れてきた人もいます。祖父があのまま満州に残っていたらソ連(ソビエト社会主義共和国連邦、現ロシア連邦)に抑留されていたかもしれません。どんな形であっても祖父が帰って来てくれて本当によかったと思います。私の父は戦後生まれですから、祖父が帰って来なければ今の私も無かったのです。
戦場に征った者は
The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)の著者、J. D. Salinger(ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー)の生涯を描いた伝記的映画、「Rebel in the Rye(ライ麦畑の反逆児 邦題:ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー)」を観たとき、戦場に征き帰って来た者は戦場に何かを置いてきているのだと、ふと思いました。そして戦場に征き帰って来られなかった者はそのほとんどすべてを戦場に置いてきている、お彼岸にムラの墓地を訪れたとき、頭頂が錐状になっている墓石を見て思いました。
祖父は生前、軍歌を口ずさみながら庭先などで佇んでいました。祖父ももしかしたら戦場に何かを置いてきたのかもしれません。祖父が見た満州の荒涼とした大地はどのような風景だったのでしょうか?この記事のアイキャッチ画像はそんなことを考えながらAIに描かせました。